■いまさら2007のアニメの感想。 正直「地球へ・・・」「電脳コイル」しかちゃんとみていない。 「らきすた」「グレンラガン」はニコ動で、「ハルヒ」はDVDで。
■「地球へ・・・」は、今川ジャイアントロボもかくやといった竹宮キャラオールスターズで喜んだし 年のせいか、知っている話が映像化されているとほっとしてみやすい事もあり かなりはまってみた。キャラを覚えずに済むと言うのも魅力だ(笑)。 そのままトレースではなく、ツボを押さえたアレンジも見事で、 自分のような「おやじ殺し」なアニメだったなあ。 最終回寸足らずで惜しい以外は、文句無しの出来でした。
■「電脳コイル」 これに関しては、もういろんな所で語り尽くされているんだろうけども やっぱり自分で語ってみたいので、確認もせずに吐き出してしまおうと思う。
○「魔法」の解釈とユビキタス ファンタジー小説等で良く語られている「魔法の終焉」の形の一つに 「魔素の枯渇」というパターンがある。 これは、魔法は「魔素」(マナとか、いろんな呼称で使用される)を使用する事によって可能な作用で それがなくなると(もしくは「ないところでは」)「魔法」は使えないという考え方だ。 発展して、「現在魔法が使えないのは、魔素が使い果たされたからだ」という理由付けにもなったりする。
つまり、「魔法の使える仕掛けがあったから魔法は使えた訳で、それがなくなったら使えない」わけだ。 同時に、「仕掛けがあればこの世界で魔法は使える」ということになり その仕掛けが高度ユビキタス社会(笑)のネットワークと、それを構成する技術&デバイス(メガネ)だ。
現実世界と重なる形で、サーバに街が組まれていて、サッチーとかそのパトロール子機とかは そっちの方にあってメガネで見ると現実に投影されて見える形・・・ぐらいはわしにも理解できる。
オンラインで扉のロックがあけられたり、監視カメラの映像が覗けたりというのも そう言う見方で見ると、仕組みとして先に述べた魔法と同じく 「作動原理の仲に操作可能な要素が仕込まれている」わけで、興味深い。
もうひとつ隠し味に、天沢退二郎の作品の風味が入っているような気がするが、こちらは未確認。 でも、主人公が「天沢優子」という時点で個人的にちょっと嬉しかったりしてはいましたが。
成長のために 大切な物を失ったり/見つけたり/大切な誰かと別れたりするのは 痛みを伴うことだけど、怖がらずに進まなきゃ という、繰り返し語るべきテーマを 「書を捨てよ街に出よう」とか「ノーライフキング」とかの文法に陥らずに あくまで「ジュヴナイル」で「エンターテイメント」として 面白い仕掛けで、そしてその仕掛けを効果的に使って語り切った気持ちのよい作品だったなあ。
○「電脳空間とか、SFとか、そう言う物を使ってしか人と関われないのかね?/笑」 とか言いそうな人を何人か知っているけど、 そう言う人たちは もしかしてこの作品を理解できないのかも?と思うと、 ちょっとかわいそうになる。
「かわいそう」というのは、相手を傷つけたくて言う言葉なのだけれどもね。 多分自己防衛のためか。 |
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